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備前焼の起源・窯の形態の歴史

備前市のお隣瀬戸内市には土師・須恵と言う地名があり瀬戸内市から備前市にかけて6世紀から12世紀に掛けての間の窯跡が110基程確認されています。中四国最大の須恵器の窯跡群です。この須恵器をルーツにして備前焼は発展していきますが最初は現在の中心地である備前市伊部を中心に周辺の山麓に燃料の薪を求めながら移動しながら穴窯を築き焼かれていた様で100基以上の窯跡が確認されています。この頃の窯は大きくても長さ10メートルほどの小さな穴窯でその後備前焼の需要が増すに従い大きくなり天正期には40メートルを超える大きな穴窯になりました。江戸時代はこの大窯の時代で江戸時代の後半の天保期には備前焼の需要も悪く経済性を求めて連房式の登窯が築かれこの頃から登窯の時代となります。この窯は天保窯と言われ今も残っています。その後明治時代から戦後に掛けて備前焼はかなりの不況となり個人所有の小振りな登窯と成って行きます。金重陶陽が人間国宝に指定され、岡山まで新幹線が開通すると今まで思っても見なかった備前焼の歴史の中でも特筆すべき隆盛の時代となり数十名の作家だったのが今や600人とも700人とも言われるほどに作家数が増えました。窯の形態もそれぞれの作家が昔ながらの小さな穴窯から森陶岳の80メートルを越す大きな穴窯・かなり大振りな登窯・電気窯・ガス窯・灯油窯と多彩になってきましたが備前ではやはり昔ながらの松割木を炊く穴窯・登窯が主流です。

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